INSIDE ORIGIN|中島ヒロト

関西のラジオ界を代表する顔であり、30年以上のキャリアを持つDJ中島ヒロトさん。
飾らない語り口と音楽への深い愛情で、長年多くのリスナーに親しまれています。
今回は、そんなヒロトさんの活動の原点から、愛用するスニーカー「PATRICK」との出会い、そして彼が大切にしている「普通」という哲学について、たっぷりとお話を伺いました。
どうぞ最後までお楽しみください。
Guest_Hiroto Nakajima
Interview_Motoi Matsuhiro
Photo_Hirofumi Ueno
Edit:Toshihiro Otake
中島ヒロト[FM802 DJ/ラジオパーソナリティ]
熊本県出身。23歳でラジオDJとしてのキャリアをスタートし、1994年よりFM802で活動。現在は「THE NAKAJIMA HIROTO SHOW 802 RADIO MASTERS」のDJを務める。30年以上にわたり第一線で活躍を続け、音楽への深い造詣と、相手の魅力を自然に引き出すトークで多くのアーティストやリスナーから支持を集める。ライブや音楽フェスのMCなど幅広く活躍し、関西の音楽カルチャーを発信し続けている。
[担当番組]
2008.10 ~ 「THE NAKAJIMA HIROTO SHOW 802 RADIO MASTERS」[MON-THU.14:00-17:51]
[過去の担当番組]
1994.10〜1995.09 「FUNKY JAMS 802」
1995.10〜1997.03 「FUNKY SPORTS INFORMATION」
1995.10〜1998.09 「THE COUNTDOWN SHOW」
1997.04〜1998.09 「ROCK KIDS 802」
1998.10〜2004.03 「RADIO M@SSIVE 0609」
1998.10〜2008.09 「HAPPY FUN RADIO」
2004.04〜2008.10 「RADIO COCOON」

ー ラジオDJというキャリアの原点は、どこにあるのでしょうか?
中島ヒロト(以下、ヒロトさん):本当に偶然なんですよ。中学1年生の時に、父親が英語の教材を聴くためにモノラルのラジカセをプレゼントしてくれたんです。僕の家はすごく硬い家庭で、家の中でも車の中でも、音楽を聴く習慣が全くなくて常に無音。それが当たり前だと思って育ちました。
ところがある日、カセットを聴こうとしてスイッチを押し間違えたら、ラジオが流れてきた。
「なんだこれは!」と衝撃を受けましたね。それからは親にバレないよう勉強するふりをして、毎晩ラジオを聴くようになりました。あの押し間違いがなかったら、今の僕は間違いなく存在しません。
ー 最初からDJという職業を目指していたのですか?
ヒロトさん:いえ、実は親からは「医者になれ」と言われて育ちました。
高校も進学校で周りはみんな医学部に行くような環境でしたが、僕は受験に失敗してしまって。浪人中に「やっぱりラジオの世界に行きたい」と親に直談判し、アナウンサーを志しました。
そこから、大学に入ったものの、授業には出ずに制作会社のADとしてテレビやラジオの現場で働いていました。そして、23歳の時、新番組の喋り手を探していた社長から「お前が喋ればいいじゃないか」と言われて。そこから地元の熊本でデビューし、やがて大阪のFM802へと繋がっていきました。

ー ヒロトさんにとっての「原点」と言える存在はいますか?
ヒロトさん:地元の制作会社にいた頃の当時の社長ですね。この方に2年間、叩き込まれました。
教えがすごく独特で、まず「滑舌の練習なんていらん」と言われました。「アメンボ赤いな、なんてやるな。そんなことより書いてあることの意味を理解しろ。頭が理解すれば、言葉は勝手に出てくるんだ」と。
他にも、スタジオのピアノを使って「この音と同じ高さで発声しろ」という練習もしました。当時は何の意味があるのか分からなかったけれど、音を聴く耳を鍛えられたんだと思います。
普通の学校では教えないような独自の美学を持った人で、その教えが今の僕の骨格、そしてラジオに対する誠実さの土台になっています。

ー 現場で「喋り手」として最も大切にしていることは何ですか?
ヒロトさん:23歳でデビューした当時、放送局の方に「君の身振り手振りは、ちゃんと電波に乗っている。それはすごく良いことだ」と言われたことが今も胸に残っています。
マイクの前で動いても意味がないと思う人もいるかもしれませんが、圧倒的な「伝えたい」という熱量は、声だけじゃなく体全体から溢れるものなんです。
それが、見えないリスナーに「体温」として伝わる。30年以上経った今も、僕はスタジオで誰よりも動いて喋っています。見えないリスナーに、僕の体温をそのまま届けたいんです。

ー インタビューで相手の本音を引き出す「聴く」技術についても教えてください。
ヒロトさん:相手のトーンに徹底的に寄り添うことですね。ミュージシャンの中には喋るのが苦手な方も多い。そういう方に僕がガンガン行くと、相手は引いてしまいます。
ボソボソ喋る人には、僕も同じトーンで隣に座る。相手が言葉を探している時は、沈黙を恐れずに待つ。
ラジオは無音が天敵と言われますが、相手が答えを見つけるまでの「間」も大切なメッセージ。話しやすい空気感を作ることが、一番の技術かもしれません。

ー ヒロトさんのファッション、ずっと変わらない印象がありますが、こだわりは?
ヒロトさん:そうなんです。最近、高校時代の同級生が当時の写真を送ってくれたんですけど、今の僕と全く同じ格好をしていて自分でも驚きました。
デニムのカバーオールにシャンブレーのシャツ、チノパン、そしてスニーカー。17歳の頃から、好きなものの軸が一本もブレていない。
20代の頃は「50歳を過ぎたら、もっと落ち着いた大人な格好になるのかな」と思っていましたけど、結局ならなかった(笑)。今でも本屋に行ったら、まずファッション誌を立ち読みしてワクワクしてしまう自分がいるんです。

ー 流行に左右されない、独自のスタイルを貫くコツは何でしょうか?
ヒロトさん:結局、「自分が一番心地いい格好」を知っていることだと思います。
流行を取り入れる楽しさもありますが、僕は自分が惚れ込んだ定番を何十年も買い足し、履き潰していくスタイルが好き。
58歳になった今も、高校生の頃と同じ目線で服を選べる自分でいたいし、それが僕の「若さ」の秘訣なのかもしれません。

ー ヒロトさんにとって、パトリックというブランドはどんな存在ですか?
ヒロトさん:最初に出会ったのは高校時代ですね。吹奏楽団の2個上の先輩が、パトリックの『アートイス(ARTOIS)』を履いていたんです。黒にオレンジのラインが入ったモデルで。
それがもう、衝撃的に格好良くて。「なんてシュッとしているんだ」と憧れました。当時は高価で手が出せなかったけれど、あの2本ラインへの憧れがずっと心に残っていました。

ヒロトさん:だから、大人になってパトリックが復刻したと聞いた時は、PATRICK LABO なんば店まで『アートイス(ARTOIS)』を買いに走りました。あの時はスニーカーを買うというより、ずっと欲しかった宝物を手に入れに行くような感覚でしたね。

ー 今日履かれている『ベリー(BERRY)』も、ヒロトさんのスタイルに馴染んでいますね。
ヒロトさん:これ、良いでしょう。僕はガムソールが好きなんです。この茶系のスウェードに、ガムソール、そしてこのスマートな形。
パトリックの魅力は、「おしゃれだけど、コーディネートを邪魔しない」ところにあると思います。

ヒロトさん:今日みたいなデニムにもスッと馴染んで、でもどこか背筋を伸ばしてくれる。僕の中で、パトリックは単なるスニーカーじゃない。革靴やエンジニアブーツを履く時に近い、「特別な次元」にあるブランドだと思っています。

ー ヒロトさんの哲学「普通を愛し、普通であり続ける」についても教えてください。
ヒロトさん:僕はリスナーにとって「隣のお兄ちゃん」のような存在でいたいんです。
例えば映画紹介。先行試写で観ることもありますが、ラジオで喋るのはあえて一般公開されてからと決めています。同じ目線、同じ温度感で「あれ最高だったよね!」と共有したい。
特にドラマ『木更津キャッツアイ』の主人公が、病を抱えながらも最後まで「普通」に仲間と過ごそうとしたあの美学に、強く共感しているんです。日常の延長にある「普通」の楽しさをずっと大切にしていきたいんです。

ー 最後に、これからの目標を教えてください。
ヒロトさん:理想は、死ぬ前日までラジオをやって、ポックリ逝くこと(笑)。
そのためには、僕自身が現場で誰よりも楽しんでいることが一番大事だと思っています。スタッフと笑いながら、リスナーの皆さんと繋がっている4時間が、僕にとって一番健康でいられる時間。58歳も、変わらず「普通」の体温で、マイクの前に立ち続けたいと思います。

ー ヒロトさん、本日は貴重なお話をありがとうございました!
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