MY REBORN
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あなたのMY REBORN 日本語を学んだことが呼び寄せた転機。日本代表選手とともに闘った日々

各界のプロフェッショナルに、MY REBORN(人生のターニングポイント)を伺うこの企画。今回登場いただくのはフローラン・ダバディさんです。日本で最初にダバディさんが注目されたのは、2002年のワールドカップ。トルシエ監督の通訳として活躍する姿ではないでしょうか。その後もテレビのスポーツキャスター、ジャーナリストとして活動を続けていらっしゃいます。そんなダバディさんの人生の転機はどんなタイミングで訪れたのでしょうか。

あなたのMY REBORN 日本語を学ぶと決めた時が最初の転機

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――最初の転機は、やはりトルシエ監督の通訳になったことでしょうか?

それよりももっと前ですね。高校を卒業し、フランス国立東洋言語文化学院という大学で日本語を学ぶと決めた時が最初の転機だと思います。
僕は昔から言語、旅や音楽、異文化が好きでした。異文化の中でも、とくに遠く離れた東洋のことを学びたいと思い、日本語を選択したんです。
でも本当はね、韓国語を一番学びたかったんです。学びたい言語の順番は、韓国語、日本語、ベトナム語でした。しかし、両親に相談したとき、彼らは韓国がどこにあるかも知らなかった。僕が韓国語を学んだあと、何をしたいのか、できるのかもイメージが湧かなかったようです。
脚本家だった父は「東洋のことは全然分からない。でも日本は今(※1994年当時)世界第2の経済大国だから、日本語を学べばきっと仕事はあるだろう」と。母は「あなたは昔から日本の建築や映画が好きだったからいいと思うわ」と、学ぶことを許してくれました。
それでも韓国語を諦めきれなくて、併せて選択しました。ところが日本語を選択した学生が200人もいたのに対し、韓国語は16人。先生も日本語は20人だけど韓国語は3人! そのうち2人はいろいろな事情でいなくなってしまって……。半年過ぎた頃から日本語だけを集中して学びました。日本語の漢字はもちろん、ひらがな、カタカナが大好きで、学ぶのが楽しかったですね。
熱心に勉強したかいがあって日本政府から奨学金をいただいて、 来日できたんです。就職も日本でしたかったのでいろいろ探した結果、映画雑誌の編集者になることができました。
タイミングや運次第では、今頃韓国で働いていたかもしれませんね。そうしたら2002年ワールドカップはベスト4まで現地にいられたかも(笑)。
※2002年FIFAワールドカップで、日本はベスト16、韓国はベスト4に進出。

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――日本でのキャリアのスタートはサッカーとは関係なかったのですね。

まったくの偶然です。映画雑誌「プレミア」の編集部で働いている時、新しく就任したフィリップ・トルシエ監督の通訳をしないかと声がかかったんです。通訳の仕事もしたことがないし、サッカーは子どもの頃から見ていましたけど、仕事で関わるなんて思ってもいなかった。他にも通訳できる人がいないか探したそうですが見つからず、回り回って来たオファーでした。
編集部では兼任を認めてくれて、いわば副業として始まった仕事でした。でも不安がいっぱいありました。まだまだ日本語力が未熟なのに、監督の言うことをうまく選手に伝えなければならない。監督がなにかジョークを言っても、そのニュアンスごと日本語に変換してうまく伝えることができない。また細かい戦術の話になるともう、ついていけない。だから「監督を演じる」しかないと思ったんです。

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――当時の映像を見ると、監督自身大変“アツい”方のようですが、ダバディさんもまるで乗り移ったかのように一緒の身振り手振り、テンションで話していますね。

はい。わが家は映画一家で(父・ジャン=ルー・ダバディ氏は著名な脚本家)、周囲にアクターがいっぱいいたので、演技の勉強はしていないけど演技のことは分かる。そこで、監督の声の旋律、身振り手振りまで成り代わって、役づくりと思って監督になりきっていました。
日本語が完璧で冷静に正確に通訳できたらそんな必要はないですが、なりきることで補うしかないと思っていたんです。しかし毎日が自問自答、「こんなやり方でいいんだろう 」と悩んでいました。
今の時代の通訳はコーチのライセンスを持っている人がやっていますが、私はそういう履歴ではない。1つ1つ、大変でした。ピッチ上で監督が走りながら「コーンを動かして!」と叫んだとしても、どこにどう動かすのか分からないので人に指示できない。監督に聞いて自分で動かすしかありませんでした。

あなたのMY REBORN 個性的なトルシエ監督と選手をつなぐ難しさ

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――監督とも選手ともコミュニケーションしなければならないし、大変な仕事ですよね。

正直に言うと、通訳になってすぐのときは、私より上の世代の選手とはうまくいきませんでしたね。カズさん(三浦知良)とか北澤(豪)さんとか秋田(豊)さんたちの世代。当時、私は学生あがりの24歳。監督の言葉を伝えているのだけど、彼らからしたら24歳の若造に叱られているような気分になるらしく、ムッとしているのが分かりました。トルシエさんもちょっと個性的な方だし、選手たちには「知らない惑星からなんか2人来た!」という印象だったのかもしれない。
ムードが変わったのは監督が世代交代を考えて若手選手を招集してからです。中村俊輔、稲本潤一、高原直泰たちは私と同じか1〜2歳下の世代です。彼ら自身も初めての代表選出で緊張していましたし、謙虚だし柔軟性、包容力にも富んでいました。彼らのそういう気持ちを感じて、僕もパニックにならずに仕事をがんばろうと思えたんです。
試合の後は、選手たちと一緒にテレビゲームを楽しんだりしてコミュニケーションを取りました。トルシエさんも、単身赴任だったのでプライベートな時間も一緒に過ごしてほしいと言うので、よく一緒に行動しました。当時僕は独身でしたから、そういう対応もできたんです。
思えば、オールドスタイルですよね? 仕事の時間以外にもあれこれ関わって……。でも、そうやってでも仕事を良くしていくことに必死だった。代表の選手たちと同じです。毎試合ごと「この試合に負けたらもう呼ばれないかもしれない」と思っていましたよ。彼らと一緒に闘っていたようなものです。
日本が点を取ったら両手を上げて「やったー!」ってすごく喜びましたよ! それは「生き残れたー!」っていう気持ちだったんです。

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――なるほど、選手と一体になって闘っていた日々だったんですね。ちなみにサッカーは昔からお好きだったんですか?

はい。父や3歳上の兄たちとよく見ていました。初めて生で試合を見たのは、1982年、パルク・デ・プランス(パリ16区のサッカースタジアム)で開催されたフランス対オランダのワールドカップ予選です。当時、オランダはスーパースター、ヨハン・クライフの雰囲気を受け継いだヨーロッパの強豪でした。フランスはまだまだ強豪とは言えない状態でしたから「強いオランダが堂々とパリに乗り込んで来た」という感じだったんです。

でもフランスにはヒーロー、ミッシェル・プラティニがいました。さらにプラティニを含め「黄金の4人」と呼ばれていたジレス、ティガナ、ジャンジーニがいて、フランス人はみな「ジャイアントキリングを起こしてくれるかもしれない!」とどこかで思っていました。
その時のフランスチームはちょうど今の日本代表みたいに、恐れを知らずにガンガン攻めていきました。その果敢な攻めにオランダも驚いたと思います。そして、フリーキックとなったとき、スタジアム中が息を呑みました。このフリーキックが決まれば勝てる、そしてワールドカップに行ける。
プラティニが静かにボールを置きました。スタジアムにいる5万人が言葉一つ発せずまるで誰もいないかのように静まり返りました。僕ももちろん、ただプラティニを祈るように見つめていました。
そして彼が蹴った。いったん外側にカーブしたボールは、グーッとゴールに戻ってくる軌跡を描き、見事にゴールしたんです!
その瞬間、5万人が一斉に立ち上がって割れんばかりの大歓声! 僕は世界的スターが誕生する瞬間をこの目で見たんです。一生忘れられないでしょう。

あなたのMY REBORN 世界一のファンタジスタ、プラティニ

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――プラティニはパトリックとも縁があるヒーローですが、やはりフランスでは特別な存在なんですね。

僕は世界一のファンタジスタだと思っています。創造力、クリエイティブに満ちた天才です。ああいう天才は、誰よりもピッチ全体が見えている。
上手い選手は、ボールをもらう前にだいたい4回ぐらい首を振って、周囲を確認するんです。その瞬間で、どこに誰がいるか、次にどう動くかを判断する。プラティニだと8回から10回首を振って、観客が「あそこがフリーだ」と思っていたのとはぜんぜん違う場所にパスをする。「え、なんであっち?」と思う間もなく、ちゃんとそこにパスを受ける選手が来ているんです。周囲を見たときに、選手たちの次の動きが予測できているんです。
だから「今日、プラティニは何をしてくれるだろう? 何を見せてくれるんだろう」とワクワクしました。それを私は美しいプレー、美しい発想と呼んでいます。10年に1人出るかどうかの天才。こういう人が出ている試合は、普通の試合がまるで音楽のように美しく感じられます。

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――音楽のような試合! 素晴らしいですね。今もそういう選手はいますか?

そうですね、80〜90年代にはクリエイションのあるサッカーがあったと思います。でも、今は頭脳と身体の神経の伝わる速さ、反射がすごく速い、たとえばメッシのような選手はいます。しかしサッカー全体のスピードが早くなりすぎて、クリエイションの時間がなくなってしまいました。
先日のラグビーワールドカップでいえば、南アフリカの選手は全員が世界最高のアスリートで、2メートル、120キロあるのに非常に素早く動く。相手チームが誰にパスするかコートの中を見回して判断する時間がない。ボール持った瞬間、南アの選手が来ている。意外性のあるパスを考える時間がない。
サッカーもどんどんスピードが早くなって、男子サッカーはもう、よく分からない。個人で状況を打開できない時代だから、いかに11人の連携で相手チームを上回るか、戦術が重要な、監督の力量の時代になっていると思います。だから戦術を勉強すれば現代サッカーのおもしろさも見えてくるけど、昔のほうが分かりやすかったですね。女子サッカーは昔の男子サッカーのスピードなので、選手の創造力が見えますね。

 
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――美しいプレー、クリエイティビティのあるプレーができる代表がプラティニだったんですね。

そう思います。それはピッチを離れても同じでした。というのも、2008年頃だったと思うのですが、欧州サッカー連盟(UEFA)の会長だったプラティニに、テレビの企画(キャスターを務めていたフジテレビ「すぽると!」)でインタビューしたことがあるのです。
質問をじっと集中して聞き、こちらの意表を突く回答を返してくる。非常にウィッティな、現役時代のプレーそのままの人柄でした。
これまで取材した超一流アスリートたちはインタビュー中に時計を見ながら「取材は15分の約束だったけど、まだ終わらないのかな」というような態度の人がほとんどでしたが、プラティニは時計など一切見ず、約束の時間をオーバーしても日本の子どもたちのサッカー教育のために熱弁を振るってくれました。
あの奇跡的なフリーキックを見てから数十年後、改めてリスペクトの念が湧きましたね。

 

――後編へ続く

プラティニが82年に放ったフリーキックは、当時、フランスから海外移籍する選手がほとんどいなかった時代に、イタリアの強豪・ユベントスに巨額移籍金で移るきっかけにもなった、プラティニ自身の転機でもあったでしょう。そのプラティニにインタビューしたTVキャスターの仕事は、ダバディさんにとって通訳の次なるステージでした。後編ではテレビでの仕事の軸となるスポーツと文化について、さらに、3年がかりで取り組んでいるというライフワークの仕事についても伺います。

writing by Mikiko Arikawa

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プロフィール

 

フローラン・ダバディ Florent Dabadie
1974年、パリ生まれ。フランス国立東洋言語文化学院日本語学科卒業後、渡日し映画雑誌「プレミア」編集部で働く中、日本代表監督トルシエ氏の通訳としても活躍。そのと、フジテレビ「すぽると!」キャスター、WOWOWのテニス番組ナビゲーターなどを務める。スポーツを通し各国の世相や歴史、文化をも伝えるスタイルで人気を博す。フランス語、日本語のほか7カ国語に精通。

http://dabadie.tv/
https://www.instagram.com/florent_dabadie/