ボン・ボヤージュ パトリックの歴史をたどる旅

後 編 PATRICKと
数々のスポーツ・セレブたち

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ボン・ボヤージュ パトリックの歴史をたどる旅 1. PATRICKと数々のスポーツ・セレブたち

— フローラン・ダバディ(以下 FD)

PATRICKは、ヨーロッパの80年代サッカー黄金期に、多くの著名なトッププレイヤーと契約されましたね。

— シャルル・ベネトー(以下 CB)

当時はおよそ二千万円でスーパースターと大型契約できた。いまでは 2億円でも足りないでしょう。当時のPATRICKのポリシーははっきりしていました。スター選手と契約をするなら、その選手の特別ラインを独立させる。たとえば、PATRICK by?for?ミッシェル・プラティニ、PATRICK by?for?ケビン・キーガン。つまり、シューズやウエアを各選手に特化したわけです。最近ではたとえばテニスの、ラコステ(ジョコビッチ・ライン)やユニクロ(フェデラー・ライン)なども徹底したイメージ戦略を展開していますね。

FD: 80年代とはいえ、たった二千万円で、プラティニ級の選手に対応できましたか。

CB: ロイヤリティーも支払っていましたよ。たとえば、本来店頭に1,700円で卸すプラティニ・モデルを2,000円で販売していましたが、一足300円の差額の50%を選手に、残り50%はこのプロジェクトに還元していました。PR予算も確保できたわけです。

FD: プラティニ選手の獲得は奇跡的だったのでは?

CB: プラティニ側には凄腕のエージェント、ベルナール・ジェネスタルがついていました。アディダスとの交渉が決裂し、ジェネスタルから父へ電話がかかってきたのです。
「いまなら、ミシェル(プラティニ)を契約させるチャンスだ」。即座に父はジェネスタルに会い出かけ、私はといえば、プラティニの父アルドさんに会いました。
うまく契約できたんですが、その3か月後に、突然エージェントから電話がかかってきて、「オレがこの契約を買い戻す」。父はびっくりして「どういうことだ?」。「アディダスが倍額でオファーしてきたので、ミシェルはそっちにくらがえすることにした」。もちろん嘘でしたよ。プラティニは知らなかったのです。父の第六感だったかもしれませんが、絶対にプラティニを離さないと心に決め、勝利したのです。

FD: プラティニは、PATRICK本社があるプゾージュ村を訪ねたことはありますか。

CB: 来ましたよ。当時プラティニは、イタリアの名門ユベントスでプレーしていましたが、トリノからフランスのナント近郊までプライベート・ジェットでやってきて、そこからヘリコプターで弊社にたどり着いたわけです。村の人々にとってはUFOなみのニュースでしたよ。プラティニのヘリコプターはサッカー場のど真ん中に着陸し、父が出迎えに行きました。

FD: こうした名選手たちのおかげで、PATRICKは国際的な脚光を浴びることになったのでしょうか。

CB: そうですね。ケビン・キーガンのおかげでイギリスのマーケットに進出できましたし、プラティニとパパンのシューズで全世界へアピールできました。当時のPATRICKのシェアは、アディダスの10分の1程度でした。しかし私たちは、一度も巨大企業になろうと思ったことはありません。誰にでも高品質の靴を届けよう、というのが父の方針でした。

FD: サッカー以外のスポーツシューズにも挑戦されましたね。

CB: サッカーとラグビーがメインで、ランニング、テニス、自転車ロードレース用の靴も一時期作ってみましたが、やはり父はサッカー・シューズが専門でした。1960年代に、PATRICKはフランス国内ナンバー1のサッカーシューズ業者に成長しました。プゾージュ村の工場に700人の従業員を擁し、1965年には第二工場を創設、70年代前後には毎年80万足を製造していました。ヨーロッパにおける80年代のサッカー・シューズ知名度ランキングでは、PATRICKは 3位でした。

FD: 小規模な企業として、もっとも苦労したことは?

CB: 何度も真似されたこと。とてもいい弁護士を雇っていたけれど、それでも真似されましたね。たとえば人工芝用のスパイクを開発した際に、某スポーツ大企業にすぐにパクられました。でもある意味、このことは父の誇りでした。PATRICKの技術は巨大ブランドに影響を及ぼすほど、ハイレベルの靴を作っていると自負していました。じつは、リーボックから買収のオファーがありました。数億円のオファーでしたよ。でも父は最後までその誘惑に負けなかったのです。

ボン・ボヤージュ パトリックの歴史をたどる旅 2. ミッシェル・プラティニ特別取材【日本語翻訳】

— フローラン・ダバディ(以下 FD)

なぜPATRICKを選ばれたのですか。

— ミシェル・プラティニ(以下 MP)

タイミングがよかった。直後にアディダスからもっと高額のオファーがあっただけにね。ベネトーたちは家族経営で、正直さがにじみでていた。さらに私は、一部のフランス・サッカーファンにイタリアのユベントスに移籍した裏切り者と思われていましたが、100%フランス製の靴でプレーすることは愛国心の証しでした。「フランスを忘れてないぞ」ってね。

FD: 初めてPATRICKをはいたときの印象は?

MP: PATRICKはじつにサッカー・シューズの専門職人でしたよ。あのイギリスの往年の名選手、キーガンの専用シューズを開発していたし、私の後にユベントスのチームメートだったブライアン・ラウドルップのためにも専用シューズを作っています。パトリス・ベネトーは謙虚な方でしたが、技術をとことん突き詰めていた。

FD: PATRICK本社のある、ヴァンデーのプゾージュ村や、当時の工場を訪れたときの印象や思い出は?

MP: 私はPATRICKブランドのアンバサダーでしたし、自分で言うのもおこがましいけれど、当時はフランス一の、もしくは世界一の選手でした。工場で働くすべての職人たちにとって、私の訪問はまるでお祭りさわぎのようだったんじゃないでしょうか。私も感謝の気持ちを込めて訪問しました。ベネトー家には、あらゆる面でよくしていただきました。

FD: PATRICKのシューズをはいていたころの思い出のゴールは?

MP: じつは、東京で決めた、トヨタカップ決勝の幻のゴールですよ。(国立競技場 1985年12月8日)
あのゴールは一切反則なしです。のちに、私がペナルティ・エリアで寝ころんで、ふくれっ面をしているシーンが伝説になったけれど、日本(という平和国家)だからこそ、平和的にプロテストの意志を表現したかったのです。このインタビューを読む若き日本人のPATRICKファンが生まれる前だったけれどね...(笑)。ありがとう。
ミシェル・プラティニ

プロフィール

フローラン・ダバディ Florent Dabadie
1974年、パリ生まれ。フランス国立東洋言語文化学院日本語学科卒業後、渡日し映画雑誌「プレミア」編集部で働く中、日本代表監督トルシエ氏の通訳としても活躍。そのと、フジテレビ「すぽると!」キャスター、WOWOWのテニス番組ナビゲーターなどを務める。スポーツを通し各国の世相や歴史、文化をも伝えるスタイルで人気を博す。フランス語、日本語のほか7カ国語に精通。

http://dabadie.tv/
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