ボン・ボヤージュ パトリックの歴史をたどる旅

前 編 カリスマ経営者とPATRICKの
アイデンティティ

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ボン・ボヤージュ パトリックの歴史をたどる旅 1. ベネトー家三世のシャルルが語る。

— フローラン・ダバディ(以下 FD)

シャルルさんのお父様、パトリス・ベネトーさんは、フランスのスポーツシューズのブランド、PATRICKの創立者パトリス・マリーさんのご子息にあたります。お父様について教えてください。

— シャルル・ベネトー(以下 CB)

私自身は恵まれた環境のもと、1970年代に、当たり前のようにビジネス・スクールに通いましたが、父は、第二次大戦のころ、フランス有数のエリート大学HEC(国立経営大学院)に合格しました。当時としてはまれにみる逸材で、じつはこの名門大学院史上最年少の卒業生です。すぐれた才能に恵まれた父パトリスは、本当に勉強家で頭脳明晰な好青年でした。

FD: お父様には、もともと起業家になろうという野望はおありだったんでしょうか。

CB: いいえ、父は田舎育ちで、まずは広い世界に出たかった。外国の大使館の経済参事官を経て、いずれ遠い国の大使になるのが夢でした。本当に旅好きで、地球上を旅するエリート人生に憧れていました。当時のフランスでは、外務省の官僚のほかに、有能な民間人にもその道が開かれていたのです。

FD: でも実現しなかったのですね。

CB: 19世紀生まれの私の祖父パトリス・マリーは、靴工場を経営していて、30人ほどの靴職人をかかえていました。ところが第二次大戦後急病に倒れ、3人の息子のうち唯一会社を経営できるのが私の父でした。父は諸外国をめぐる夢を断念し、家族経営を受け継ぎました。

FD: 当時は 、 ごく一般的な靴屋のアトリエだったようですね。

CB: そうです。どこの町にもよくあるような...。いつの頃か正確にはわかりませんが、1954年から55年ごろには、父は独自のスポーツブランドを立ち上げようと決心します。

FD: スポーツとのご縁はどういうところから?

CB: プロのスポーツ選手を目ざしたわけではありませんが、スポーツ愛好家でしたよ。とくにランニングや草サッカーが好きだったので、陸上競技とサッカー仕様の専門靴を作ることにしました。

FD: 当時のライバル社はどこでしたか。

CB: 国内に競合する会社はありませんでした。父はいつも「他の人がチャレンジしないことに、私こそが挑んでやる」という精神の持ち主でした。単なるサッカー・シューズを作るのではなく、スパイクのついたサッカー・シューズを作る―フランス初の試みでした。

FD: 海外では?

CB: 1949年当時、アドルフ・ダスラーがアディダス社を設立しました。息子のホルスト・ダスラーは父と仲がよくて、ふたりは同時代に同じ冒険に乗り出したといっても過言ではありません。実際、ホルストは私たちの地元プゾージュ村(PATRICK工場のあったフランス西部の田舎町)に来たこともありますよ。

FD: ところで PATRICKの社名の由来は?

CB: 父は祖父と自分の名前「パトリス」にちなんで、社名を『PATRICK』にしたのです。英語圏でも、パトリスよりパトリックのほうがなじみやすく、出発点からの父の海外戦略のビジョンをうかがわせますね。

FD: お父様はどんなお人柄でしたか。

CB: 読書と音楽が好きで、とりわけ20世紀のフランスの作家ジャン・ジオノの大ファンでした。生き方はサッカーでいうところのファンタジスタでしたね。プライベートと仕事の顔は全然違いました。

FD: 別人のように?

CB: ただし、彼の知的好奇心は PATRICKの品格にも影響を与えたのではないかと思います。それに、旅好きな彼だからこそ、PATRICKブランドを世界中に展開していくことになった。ひょっとして、国内市場より海外展開に興味があったのではないでしょうか。

FD: 経営者としては、どんな性格をおもちでしたか。

CB: のちほどお話しますが、基本的にやさしいワンマンでした(笑)。たとえば、海外戦略においては、代理店やライセンスビジネスに頼らず、なるべく全部を自身で仕切りたいタイプです。北欧、イギリス、スペインとポルトガル、北米などに支社はありましたが、じつは彼ひとりですべての方向性を決めていました。

ボン・ボヤージュ パトリックの歴史をたどる旅 2. 最先端の技術、そしてデザイン

FD: PATRICKの靴が成功したいちばんの要因は?

CB : 数々の発明ですね。たとえば、アルミのスパイク・シューズを初めて考案したのはPATRICKでした。このスパイクは私たちPATRICKのサッカー・シューズだけに使われていて、独立した市場とクオリティ・コントロールを実現しました。一般に販売されていたのはアディダス製でスチールのスパイクでしたが、PATRICKのソールに装着されていたのは、専用のアルミ・スパイクでした。

FD: なぜアルミのスパイクを?

CB: 市販のスチールのスパイクは古くなると、表面が削られ、先端がどんどんとんがってしまい、相手を傷つけてしまう危険性がありました。父は真っ直ぐで真剣な男でしたから、自分の靴で人にケガをさせるなんて、とんでもないことだったんです。私たちのアルミのスパイクは古くなっても、先端が丸く削られる特徴があり、スチールよりはるかに安全でした。

FD: そのほかには?

CB: 私たちのソールも革命的でしたね。深い芝、硬い芝、濡れた芝、人工芝など、サッカーのピッチのコンディションに合わせて、いくつかのモデルを作りました。他社のブランドには当初そうした発想はなく、私たちから刺激を受けて作りはじめたのです。

FD: お父様はエンジニアリングには関心をおもちでしたか。

CB: 父は技術的な研究も好きで、数々の発明品の特許を取得しました。

FD: あのフランスのクラシック・ポロ・ブランドの創設者ラコステさんも発明家だったそうですね。成功するインディーズ・ブランドの秘訣はそのあたりにあるのでしょうか。

CB: どうですかね。じつは、ラコステのシューズは、当初は私たちが担当していました。明らかにラコステさんは父同様に、商品の技術的特徴を大事にしていたのです。自社ではまだ作れないので、私たちの技術を評価してまかせてくれたのです。それが分岐点だったのかもしれません。ラコステはMainstreamブランドになり、私たちPATRICKは、そのままテクニカルなブランドイメージを目ざしたのです。

FD: お父様には、ほかにどんな特徴が?

CB: どこに投資すればいいか、見識がありました。たとえば世界的なブランドになろうと意欲的だったから、すぐさま優秀な弁護士(会社)やPR会社と契約した。海外ビジネスに必要不可欠な要素だと判断したのかもしれません。この領域はある意味、大手ナショナルスニーカーブランドがもっとも得意としてきた部分ですが、父はそれ以上によく承知していたのです。

FD: そういえば、PATRICKは、技術とデザインの両立に成功しましたよね?

CB: それでも、やはりPATRICKはまず技術です。「パトリック、最先端の技術のために」(PATRICK, L’Avance Technique)というスローガンのとおりです。父にとってファッションは二の次でした。じつは父は、アメリカのマーケットに進出してはじめて、デザインとファッションの大切さに気づいたのです。サッカー・シューズの色だって、父にとっては黒しか考えられなかった。ところがある日、アメリカ出張の際にナイキのカラフルな靴を見て、時代が変わると父は悟ったんです。70年代後半~80年代前後のことで、すでに技術だけでは消費者の支持を得られなくなっていました。

FD: 伝説的なMARATHON(マラソン)シリーズはとてもカラフルですね。

CB: MARATHONという靴を作ったきっかけは、60年代後半にヨーロッパでランニングがとても流行ったことです。1968年、アディダスが自社初のランニング・シューズACHILLL(アシル ※アシルはアキレスの意)を製作し、それに対抗して、私たちはMARATHONを作ったのです。アシルは踵にクッションを加える画期的なソールでした。一方私たちは、着地の衝撃の観点から足をサポートするシューズを考案しました。

— 後編へ続く

プロフィール

フローラン・ダバディ Florent Dabadie
1974年、パリ生まれ。フランス国立東洋言語文化学院日本語学科卒業後、渡日し映画雑誌「プレミア」編集部で働く中、日本代表監督トルシエ氏の通訳としても活躍。そのと、フジテレビ「すぽると!」キャスター、WOWOWのテニス番組ナビゲーターなどを務める。スポーツを通し各国の世相や歴史、文化をも伝えるスタイルで人気を博す。フランス語、日本語のほか7カ国語に精通。

http://dabadie.tv/
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